Hikobae

主に古庭園に関する備忘録

朽木池の沢遺跡

1. 

13世紀初頭の庭園遺跡というのは非常に貴重。

加えて、いわくありげな数々の伝説。

古庭園めぐりを、この地、滋賀県高島市朽木から始めるのもいいだろう。

河川に沿った小盆地、城館跡、中世庭園、というのは古庭園好きの心をくすぐる組み合わせだ。

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発掘調査で、中国産青磁破片が出土した。その年代から、13世紀前半には造られていたことがわかっている。 

後一条天皇は、いわゆる藤原氏全盛期、11世紀前半に在位。その皇子(皇女?)がここに隠棲したという言い伝えがある。(地元の伝承では、その皇子(皇女)はアルビノであった、とも。)

周辺には、少し離れた朽木岩瀬の朽木氏岩神館跡(現在の興聖寺の地)の他、すぐ北に谷を挟んで湧出館跡と呼ばれる伝承地が存在、そちらには朽木氏の姫君、湧出姫が隠棲した、とされる。

朽木氏は、近江源氏佐々木氏の支流。承久の乱で幕府側についた信綱の二男高信が高島郡を分領され、さらにその子頼綱が朽木庄を分領する。湧出姫がいつ頃の人物とされているのか定かでないが、皇子伝説とは年代が異なる。また、それを13世紀初頭に設定するとしたら、年代的に早すぎよう。

(余談ながら、溝口健二が監督した映画『雨月物語』の若狭姫と朽木屋敷の設定は、上田秋成の原作とは異なっており、この地の伝承を下敷きにしたものに違いない。)

このあたり、別々の伝承がごっちゃになっている印象も受けるが、他所からこの地にやって来た謎の貴人の影を感じ取る様な思いで、この庭を見る。

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奇蹟のように、今でも、水が流れ、石組みがあり、池島も存在する。もちろん、伐採、発掘のおかげではあるが。

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ありふれた形の石を寄せた平凡な石組みではない。確かに、ここには京の文化的な香りがする、ような気がする。

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池島は、岩盤の上に川原石・角石を積み上げて構築したもの。一見、自然に風化した姿に見えるが、人の手によって生みだされたものだ。

 

発掘で、最初に作られた池が後に埋められ、その上に盛り土を行って新たな池が造られたことが判明した。つまり、この庭園遺構は年代を隔てた2つの時期の構築から成っているのである。(現状の姿は第2期の再現という。)

第1期の池には平安期の庭園で好まれた州浜の遺構が検出されている。

つまり、池の沢遺跡の庭園は、「13世紀初頭以前に「園池」として作庭され、その後の14世紀にかけて「流れの池」に改修された」(参考資料2)

とすれば、2つの伝説の重なりも、俄然重要な意味を帯びてくるようだ。

 

石組みの上方をよく見てみる。

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岩に層が見える。

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調べれば、これは守山石と呼ばれるものだろう、と見当がつく。

滋賀県湖西に産するチャートの一種とのこと。

もともと、この地は特色ある石の産地でもあったのだ。

明治時代、七代目小川治兵衛が愛用したという。京都他の庭園で、意識せずに人々が眼にしている石だ。

それにしても、この層は何に由来するのだろう。

(撮影:2012年春)
<参考資料>

1.宮崎雅充「池の沢庭園遺跡の庭園遺構(平成18年11月11日現地発表資料より)」

2.高島市教育委員会「平成21年度 高島市池の沢遺跡発掘調査発表資料 」